
Illustration by Raven=香渡冬甫
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Story1
『Pool』
朝、目が覚めて最初にするのは、上掛けのタオルケットに頭の先まですっぽりくるまること。
タオルケットの中で、私は深く深く呼吸する。肺の容量の限界に挑戦する、イメージ。
寝汗を吸ったタオルケットの、ちょっとこもったような、匂い。密度の濃い、私の匂いがする空気を、ぜんぶ吸い込むような。全身に行き渡らせるような。そういう、イメージ。
深呼吸を3回。ベッドの中、体温で溶けていた私の輪郭が、戻ってくるのを感じる。
おはよう、と枕にキスをして、起き上がった。
これが、毎朝の儀式。
* * *
職場に着いたら、タイムカードを押して、同僚への挨拶もそこそこに水着に着替える。今日のシフトは、午前中が監視員で、夕方からは小学生向けのスイミングスクールが二コマと中高生向けが一コマ。
毎日のようにプールに入っている私の髪は、色素が抜けて染めてもいないのにうっすらと赤茶色になってしまった。
別に、この仕事が嫌いだとか、性に合わないだとか、そんな不満は欠片もないけれど。だからって、好きってわけでもないし。
幼い頃から、泳ぐのは好きだった。流行りのアニメよりもゲームよりも、背泳ぎが好きだった。学生時代に幾度か、リレーで県大会に出たこともあるけれど、表彰台にはついぞ上ったことがない。
ただ、それだけ。他人よりちょっと、水泳が好きで。他人よりちょっと、背泳ぎが上手だった。だから、この仕事。
我ながらバカな選択をしたと思う。好きなことを仕事にしたら、楽しい人生を送れるとでも思っていたの?
プールサイドで簡単にストレッチをして、冷たさに身体を慣らすように、ゆっくりと入水する。塩素の匂いに包まれる、この瞬間だけは苦手だ。私が消毒されてゆく。じわじわと熱が奪われて、私が水中に溶けだしてゆく。
背泳ぎで100メートル。それから平泳ぎ、バタフライ、クロールをそれぞれ100。少し休憩をはさんで、またバック、ブレ、バッタ、フリー。
「お、今日も調子良いみたいだね、個人リレー」
昼前のマタニティスイミングのクラスを担当している同期が、からかいまじりに声をかけてきた。
「まぁね」とおざなりに返事をして、また、バック。
個人メドレーではなく、リレーの順番で泳ぐから、『個人リレー』なんて言われる。どうして個人メドレーで泳がないのかと問われれば、単にあまり練習したことがないから、としか答えようがない。背泳ぎは得意でも、他はそこそこ、だから。個人メドレーでは、たいした記録を出せない、ので、やらなかった。
身体が水に馴染んで、私と水との境界線が曖昧になった頃合いで、場内の点検をする。水温と塩素濃度の確認、備品に破損はないか、プールサイドに危険物は落ちていないか、その他諸々。
「こっちは大丈夫ー!」
8レーン挟んだ向こう側の同期に声を張れば、あちらからもOKのサイン。楽しくない仕事の始まり。
* * *
ひとたび監視台に上れば、50分はそこから動けない。
肌がヒリヒリする。私に染み込んだ塩素が界面活性剤の役割をはたして、空気と私の境い目で膜を張っている。皮膚から呼吸ができなくて、内側が澱んでいく嫌悪感。自由遊泳の時間も、マタニティスイミングの時間も、上から眺めているだけというのは暇で暇で仕方ない。早く終われと心の中で愚痴りながら、休憩時間を待ち望む。
50分ごとの休憩時間は、私が呼吸をするためにある。お客さんがプールサイドに上がったのを見届けて、私と同期はプールの底まで潜水する。落し物はないか、異常はないか。その確認のための数分に、私は水と一体になって全身で息を吐く。溜息を吐く。
* * *
未来ある子どもたちに、平泳ぎのコツを教えて、バタフライの練習をさせて、クロールのタイムを計ったら、今日の仕事は終わり。
お客さんのいなくなったプールで、朝と同じように、バック、ブレ、バッタ、フリー。
私が水になって、水が私になる。私が、水に、消えてゆく。
中身が全部溶けだして、抜け殻になった身体を引きずって更衣室へ。シャワーを浴びる。束ねた髪の隙間から、顔から、肩から、手のひらからこぼれていく雫は、私に染みついた塩素の匂いを、少しずつ、少しずつ、流し去ってゆく。
消毒されすぎた私からは、もう何の匂いもしない。ふやけた皮膚と同じで、私の存在そのものが揺らいでいるみたい。
早く、帰らなくちゃ。ベッドに潜り込んで、タオルケットにくるまらなくちゃ。
朝の私の匂いの残滓で、私は私を、再構築する。
(文章:海野きせ)