Illustration by 原愛実
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Story1
『不穏な花嫁』
(文章:原愛実)
Story2
『花嫁人形』
大学の先輩が壊れた。
オートバイとレーシングカーに目がなくて、趣味はロボットの自作であるという、ごりごりの機械オタクである先輩が、壊れた。
三日やそこら、無断で研究室を休むことくらい、よくやらかす人だったから、どうせまた新作ロボットのプログラミングにでも没頭しているんだろうと、誰も心配していなかった。
ところが。音信不通になって五日目、ふらりと研究室に現れた先輩は、髪はぼさぼさ、ひげも伸びて、もう何日も風呂に入っていないかのような異臭を発していた。
「どうしたんですか!」
その場の全員が目を丸くする中、僕はとっさに大きな声をあげていた。
「よぅ、伊藤」
なんでもないようにひらひらと手を振る先輩は、それだけ見ればいつも通りの態度のように思える。けれど僕は見逃さなかった。いや、……見逃すことに、失敗した。ひらひら揺れる先輩の左手。その薬指には、今まではなかったはずの、シルバーリングがはめられている。
「先輩、マジで、どうしたんすか」
あまりの衝撃に感情が追いつかなくて、再び発した声は自分のものじゃないみたいに平坦だった。
「どうしたんですかって、お前がどうしたよ?」
本当に何もわかっていないような声音でそう返されて、僕は途方に暮れる。助けを求めて教授に視線を投げれば、「お前が何とかしろ」と、表情とジェスチャーで門前払い。
もともとが男ばかりでむさ苦しい研究室に、汗臭い先輩をこのまま置いておくのは得策ではないと判断して、なんとか、自分の中に残っていたわずかばかりの理性をかき集める。
「……先輩。実は僕、昨日から徹夜で実験してて。風呂、入ってないんすよ。ちょうど今ヒマになったとこなんで、銭湯、付き合ってくれませんか」
本当は、今が実験の山場なんだけれど。
名残惜しく自分の作業スペースを見やって、ため息とともに気持ちを切り替えた。
大学の近くには安い銭湯が幾つかある。それというのも、この辺りの一人暮らし用物件には、共用風呂しかないことが殆どだからだ。貧乏学生の足下を見ているとしか思えない。
一番近くの銭湯まで並んで歩くあいだ、先輩は無言だった。くだらないお喋りが好きな先輩が黙々と歩く様子はどこか不気味だったけれど、どんな言葉をかけたものかと思案していた僕にとって、無理に話さなくて済むのはありがたかった。
髪と体を洗って、ひげを剃って。湯船につかる先輩は気持ちよさそうに表情を緩めて、健康的な雰囲気を取り戻していた。
「ところで先輩」
隣に並んでお湯の熱さに人心地つきながら、懸案事項を口にする。
「その指輪、誰と、ですか?」
間近で見ればはっきりとわかる。それは単なるオシャレなんかじゃなくて、誰かと人生を共有するための誓いだ。
「あぁコレ? 彼女ができたんだよ」
どうだ羨ましいだろう、とニヤリ笑った先輩には申し訳ないが、ろくでもない彼女の予感がひしひしとする。
「いつの間に?」
「いつだっけなぁ……、四日くらい前? 雑貨屋で知り合って」
その日のうちに交際を申し込み、翌日にはペアリングを買ったという。
先輩が行く雑貨屋といったら一軒しかない。そこは中古の電化製品や歯車仕掛けのからくりを売っている店で、先輩はよくコンデンサー式の何かしらを買ってきては、分解して組み立て直し、自作ロボットの材料としている。ジャンク品扱いだがパーツ取りに使えるものを二束三文で売っているから、新品を買い集めるより安く済むのだと、以前連れて行ってもらったことがあった。
雑貨屋とはいえ、どう考えても、女性が喜びそうな小物類を売っている店ではないはずだ。
うぅむ、と心の中で唸る。そんな僕を知ってか知らずか、「そうだ」と先輩はいたずらっ子のように瞳を輝かせた。
「伊藤、今からウチ来いよ」
家に彼女がいるから、と言われては、断る理由なんてなかった。研究室から遠ざけて、まともに風呂にも入れないような生活をさせるなんて、事と次第によっては別れさせてやる。そんな意気込みでお邪魔した、先輩の狭いアパート。六畳一間に簡易キッチンがついているだけの雑然とした部屋の中に、異様なモノがあった。
腰まで伸びた金の髪、閉じられた瞼は長い睫で縁取られて。陶器のように白い肌、小さな唇には紅がのる。美しい女の姿をした人形は、肌よりもなお白いドレスを着て、頭からは純白のヴェールをかぶり、胸の前に鮮やかな花束を抱えていた。
「先輩、まさか、彼女って……」
「そう、この子。マノンっていうんだ」
誇らしげに『彼女』を紹介する先輩の姿に、思わず恐怖する。
(先輩、ソレって、人形じゃないんですか?)
思えど、口にできるはずもなし。
「ごめんな、こいつ今、寝ちゃってるみたいだ」
人形の前にひざまずき、丁寧な手つきでドレスの裾から右足をあらわにする。くるぶしの位置に小さなぜんまいが付いていて、先輩はそれをゆっくりと巻き始めた。
「先輩……」
震える声は、夢中でぜんまいを巻く先輩には届かないのだろうか。
「先輩!」
叫ぶように、呼ぶ。
「彼女って、ソレ、人形じゃないですか!」
それでもなお、先輩は手を休めず。僕に背中を向けたまま、言葉だけが返ってきた。
「今はもう、人形じゃねぇよ。こうして、ちゃんと、世話をしてやれば、一人で歩くし、会話だってできる。泣いたり、笑ったり、立派に人間だ」
人形に心を奪われた先輩とは、それきり会話らしい会話もできず。なんとか、先輩がマノンを見つけた場所と日時だけを再確認して、僕は雑貨屋へと向かった。
「いらっしゃい」
コーヒー片手にのんびりした様子の店主に詰め寄る。
「四日前、ぜんまい仕掛けの人形を、売りましたよね?」
冷静に、冷静にと思っても、声が険を帯びるのは抑えられなかった。鬼気迫る僕の様子に何事か察したようで、店主は椅子を勧める。
「コーヒーと紅茶、どっちが良いかね?」
「結構です」
「うんうん、それならミルクティーにしようか」
僕の態度を意に介さないのか、店主はしばらくして店の奥からマグカップを運んできた。
「温かいものは落ち着くからね、飲みなさい」
そう言って、自身もコーヒーを一口。
「キミとあの青年は、友人か何かかい?」
その日のことを思い出すかのように目を細めて、店主は静かに問いを発する。
「大学の先輩です」
「そうかいそうかい。それで彼は、さっそく彼女に魅入られてしまったというわけだ」
妙な話だよ、と前置きして、店主は人形について語り始めた。
その人形は死の淵にある花嫁の悲願を託されてつくられたという。女は、不治の病の己がこの世を去ってからも、家族が寂しくないようにと、己の一番幸福な瞬間をからくり人形の姿に変えた。
精巧な技術の粋の、完璧な作品。今にも動き出しそうなその目に、肌に、唇に、一体どれほどの人間が魅せられたか。彼女が世に出て以来、多くの人間がその人生を狂わされた。彼女に魅入られた者は、どういうわけだか彼女を人間だと思い込む。そして自分のことなどまるで頓着せずに、献身的に人形の世話をするようになる。そうすると、不思議なことに彼女も『応える』ことがある。しかし、ある日、彼女が花を持ってくる。それを受け取ったら、最後。おしまいの合図。それ以降、ぱったりと動かなくなってしまう。
「彼女が抱えている花を見たかい? どれもろくな意味がない」
言われて、人形が抱えていた花束を思い出しつつ、スマホで花言葉を検索する。
アジサイは『移り気』、白いチューリップは『失われた愛』、スイセンは『うぬぼれ』、黄バラは『嫉妬』、アネモネは『見放された』……
なるほど、こうして見れば確かに、手放しでハッピーだと言えるような花言葉は一つもない。
「例えばチューリップを渡された男は、年老いて妻を亡くした直後に彼女を手に入れた。青春が戻って来たかのように彼女に入れ込んだそうだよ。男は非常な熱意をもって彼女を愛したけれど、肉体の衰えばかりはどうしようもなかった。人形と人間の違いさえわからなくなっている、と息子たちに精神病院へ閉じ込められた後も、彼女を傍に置いていたらしい。だが、あるとき彼女が男に白いチューリップを与えた。それを受け取った途端に彼女は動かなくなり、翌朝には男も帰らぬ人になったそうだ」
そんな物騒な話ばかりだよ、と店主は苦笑する。しかし、僕にとっては笑えない話だった。
人形を生きていると思い込む?
人形が勝手に動く?
人生を狂わされる?
馬鹿馬鹿しいと思うのに、先輩の態度を思い出したら、一笑に付すこともできなかった。
「あの青年が彼女を買うと言い出したときも、曰くつきだと止めたんだ。そもそも売り物ではなかった、ただ飾っていただけで」
今ならまだ間に合うだろう、と店主は言った。ひどく真剣な眼差しで僕を捉えて。
「キミが先輩を大事に思うなら、無理やりにでも彼女と引き離してあげなさい。手遅れにならないうちに。彼女が花を持ってこないうちに。彼女はこの店で、責任を持って引き取るから」
「わかりました」
店主の瞳を真直ぐに見返して、頷く。
雑貨屋を出る直前に、店主がぽつりと呟いた言葉が、今でも耳から離れない。
「モノは時に、ヒトの時間を超えて、長く長く、生きていかなくてはならない。つくられたきっかけである家族を失って、なお。もしかしたら、彼女は寂しいのかもしれないね」
世に曰くつきの人形は多けれど、これほどまでに悲しい『曰く』を持った人形は、きっとふたつとないだろう。
僕は、走り出した。あの人形のもとに。
(文章:海野きせ)